恋にお寿司に音楽に

棺桶には寿司とCDと愛を入れてください

“こんなはずじゃなかった”

久しぶりです俺です。

 

前回のブログからだいぶ時間が空きましたがその理由は単純で、特に私生活において変化がないから。

 


新型コロナウイルスという、どこが新型なのか最早わからないウイルスのせいで未だにかつての日常生活を取り戻せていないので一人の時間が多く毎日が単調になりブログネタがなくなるというベタに負の連鎖にはまってしまっているのです。

 

 

そして負の連鎖だけに留まらずオンラインゲームにもはまってしまったのでますます話のネタがないのです。

 


こんなはずじゃなかった。

 

そんな感じです。
もちろん悪い意味ではないですが。

 


でも生きていたら“こんなはずじゃなかった”って事が多かれ少なかれありますよね。

 

 

恋愛、仕事、勉強、人間関係。
“こんなはずじゃなかった”の連続で人生は成り立っています。

 


そしてそれは別に大層な事じゃなくても感じることもあります。

 


例えばファミリーレストランで悩みに悩んだ結果特にピンとくるメニューがなく、無難に「たらこスパゲティ」を頼んで友人と談笑している時。

 


ふとメニューの棚に目をやると「期間限定メニュー」の文字。

 

 

写真にはメイン料理に魅力的なサイドメニューがついたお得なセットが写っている。

 

 

 

『うわー俺これにすればよかったわー』

 

 

の声も虚しく、申し訳なさそうにたらこスパゲティがテーブルに降り立つのです。

 


そこで貴方は言うでしょう。

 


『こんなはずじゃなかった!!』と。

 

 

でもその後に食べるたらこスパゲティはそんな後悔も嘘のように美味しい。
そして明日になればその後悔も覚えてすらいないでしょう。

 


つまり貴方が日常生活で後悔するような出来事はちっぽけな事だとわかります。

 


とどのつまり、何が言いたいかと言うと「貴方の後悔や、些細な悩みはちっぽけで前向きに暮らしていきましょう!」と言う事です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



と、このようにまとめる人の言葉を信じずそのままの貴方でいてくださいって感じですチョベリバーだれかAPEXやろ酒うま

“ペット”

俺は高橋あゆむ。


しがない小説家。


と自分で言うことでなんとか理性を保ってはいるがただのフリーターだ。


名案だ!とペンを走らせ短編を書き終えると編集者に持ち込み却下される事を繰り返すだけの簡単なお仕事をしている。


今年で27だというのに物書きをやめられない。
周りの同級生は、やれ結婚だの、やれ子供が寝付かないだの自慢じみた“幸せ愚痴”をSNSに投稿している。


それを見る度に自分の孤独さに拍車がかかる。

 

「報われない」という言葉はきっと僕のためにあるのだろう。

 

一緒に暮らしていて『ずっと一緒』に居るはずの彼女は僕の怠慢さに愛想をつかし離れていった。

 

なので今はペットと僕の二人暮らしだ。
悪くない。寂しさを代償に自由を手に入れた。悪くない。

そう思うしかなかった。

 

 


なのに。

 

 


…最近ペットの体調が悪い。

勘弁してくれ。
せめてペットくらいは順調にほのぼの生きててくれ。
癒やしの対象でいてくれ。

一度病院に連れていったが「ストレスですねー」という当たり障りない診断でお茶を濁された。

 

でもそれは本当のようだった。

 

実際、躾通りに動かないし、何より常にぐったりして元気がない。

 

僕の家に居てどこにストレスが溜まるんだよ!という愚痴は置いておいてペットですら僕の調子の悪さがうつってるらしい。

 

彼女だけじゃなくペットにすら愛想をつかされたのか?
勘弁してくれ。これからまだまだ楽しいことが待っている。そう思いたい。
想像の中の僕は小説家として人気なはずだしまだまだ可能性があると自負している。

しかしそんな自信も現実というやつのせいでボロボロになる。


バイト終わりに編集者のダイレクトメッセージに凹みコンビニで缶ビールを買っては家で自暴自棄になる。
僕にとっての小説や、その意気込みはその程度だった。


家に帰り、ペットの好きな食べ物を口の前に持っていく。
無我夢中に口を開けそれを咀嚼する。それを見ながら餌を与えるのが何よりの楽しみだった。

今日も嫌なこと、辛いこと、報われない事を小説に昇華させて生きていく。


きっと、それだけが僕における幸せなのだと。
思うしかなかった。

 

 

 

 


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「引き続き都内のニュースです」


「東京 八王子市のアパートで階段の一部が崩れ落ちて20代の男性が死亡した事故の件ですが、アパートの一室で成人女性の遺体が発見された事について新たに専門家の見解を聞きたいと思います。」


「専門家の山本さん、この拉致監禁事件についてどのようにお考えでしょうか」

“えっち”

 

 

 

今日は“えっち”と“セックス”の違いを皆様にお教えしたい。

 

 

いやいや待ってくれ。
決して下ネタを言いたいだけじゃないから。すこし聞いてくれ。
どうぞ足を崩して聞いてくれ。

まずこの“えっち”と“セックス”を聞いて何を思い浮かべますか?
まぁ9割の人が「性行為」と感じるでしょう。
まぁあながち間違いじゃない。
というか正解。

「えっちしよ?」

「セックスしよ?」
は同義語なのは周知の事実。

しかし俺は別に性行為の話をしたいわけじゃない。
(女の子に言われるなら前者が良いです←黙れ


いや何が言いたいかって汎用性の違い。
“えっち”は何にでも使える。
“セックス”は性行為にしか使えない。


要は動詞と名詞ってことを言いたいわけです。

例えば好きなバンドの曲を聴いててカッコいいギターソロがあったとして「うわーえっちやなぁ」と思う事はあっても「うわーセックスやなぁ」と思う事はない。

てかむしろ後者は意味わからんからね。

 

 

この方程式を頭に入れた状態でこの話を聞いてほしい。

 

 


先日、帰宅途中の事。


改札の前で大学生と思わしき男女が居た。恐らくカップルではない。
が、限りなくカップルに近い両思いだと思う。


男の子が「じゃあ、またね」

と右手を振ると女の子が下を向いてだんまりを決め込んでいた。

青春の風をビュンビュン感じた僕はしれーっと改札前で観察。
#きもい
#はよ帰れ
#おっさんきしょいぞ
#他人の胸キュンを覗くな
#税金高すぎ

 

すると下を向いて黙る女の子に向かって「え、どうしたん?」とすかさず男。
第一関節が見えるか見えないかくらいの萌え袖をぷらぷらさせながら放った女の子の言葉がこれだ。

 

 

 

「……帰りたくない…。」

 


いや…

 


えっちーーーーー!!!

 

 

いやまてまて

 

 

 

えっちーーーーー!!!!

 

 

 

 

 

もうね、録画したい。

 

 

え?てかこれ言われて帰る男いるん??

聖者??なに?犯罪スレスレじゃね???

 

 

 

 

これはもう“えっち”がとか“セックス”がとか関係ないぞ??!

この場合、動詞にも名詞にもなるぞ?!

早速方程式崩すなよ?!!

何してんの??!!

 

 

さっきまでの説明なんやったん???!

 

 

 

 


解散!!!!

 

“涙”

長年疑問だった自分の感情をまた一つ言語化できたのでまとめておく。

 

それは心を揺さぶられて「泣く」という感情について。

 

俺は昔から何かを見て泣くという経験が少なかった。

泣けると話題の小説を読んだ時も、皆が口を揃えて「泣いた」と言っていた感動映画を観た時も、悲しい漫画を読んだときも泣きそうにはなるものの涙は出なかった。

なら自分は何を見ても涙を流さない冷めている人間なのか?


いやそれは違う。

 

実際、過去に映画で泣いた事もあるしライブで涙を流したこともある。

 

じゃあこれらの違いは何だ?

単に「好み」の問題?

それもあると思うけど少し違う。

 

 

 

つい最近の出来事。


青春物の小説を涙一つ零さず読み終えると小腹を満たすためのカレーを、物語の余韻と共に噛みしめていた。
スマホの画面をスクロールする2分程度のCMの動画がツイートされていた。何気なく観てみると、有名バンドの楽曲と共に携帯電話にまつわる恋愛模様が描かれていた。


さっき読んだ小説の余韻もあるだろうに、その動画を観て涙してしまった。

 

その瞬間、自分が物事に感動して涙する共通点を見つけた。


それは音楽。


いい小説を読んでも映画を見てもその後ろに音楽がなければ涙することはない。
逆にたった2分のコマーシャルでも音楽と物語が重なれば涙する。

それに気がついたのだ。

子供の頃、アニメで泣いたのもエンディングテーマが流れた瞬間だった。
ものすごくしっくりきた。

 

 

なんだ、俺って単純だった

“ぶっ生き返す”

「約一年ぶりのライブ」
文字だけ見たらそんなに大したことない気もする。
でも音楽の為に働いてライブに行くために生きてきた俺の中ではこの一年はあまりにも窮屈で何をするにも感情というものを失っていった。

自分でもわかるくらいエネルギーが底をつきて目指すライブがないのに働いて、生きて、我慢する。
金は貯まらないくせに鬱憤は溜まり放題。

もはやライブに行きたい!とすら思うエネルギーもなくなった頃、ついにライブの日がやって来た。
二十代最後に行ったライブから一年以上が経っている。
29歳だった自分も31歳になった。

なんなら逆に実感沸かなくて「ライブってどうするんだったっけ」となってしまう。
しかも大好きなマキシマム ザ ホルモン

自分の人格や思想に様々な影響を与えて一番好きと言っても過言ではないバンド。

会場には椅子がぎっしりと並べられていてライブハウス、ましてやホルモンのライブではみたことない風景。
場所取りがないのは気が楽かもしれない。

声も出せない、踊り狂えないライブなんて我慢できるのだろうか。
そう思った頃にホルモンが登場し、テンションはいきなりMAX。
曲がはじまり爆音に包まれる。
あぁ久しぶりだ。こんなにうるさい音を聞いたのは本当に久しぶりだ。身体の中の細胞一つ一つがライブを思い出していく。
始まる前は気にしていた「声」も始まってしまえば案外楽しめて心の中で十分に叫んでいた。
こういう形でホルモンを見ることもそうそうないので新鮮だ。
改めて思ったがヘドバンって最高だな。声を出せなくても暴れなくてもできる最高の表現方法だ。

ライブの内容は心の中に閉まっておくとして、今日の感想を言うなら「ぶっ生き返った」だと思う。
ライブに行けなかったこの一年、俺は多分死んでたんだな。やっぱり俺にはこれしかない。

日々悩んでいたこと、マジでちっぽけに思う。
そんな気持ちにさせてくれる音楽に感謝。
マキシマム ザ ホルモンに感謝。

首の痛みと耳鳴りが今日の証。

明日からも「ライブ」を楽しみに生きていきたいと思えた1日だった。

“意味”

 

 

 

 


『昨日確かめた日々の妄想が
重なりそれが点になり月光が照らす
静かな普通が不意に暗がりに消える
それはまるで高尚な偶像だった』

 

 

 

 

 

 

 

 

 


どうですか?

 

何か感じましたか?


この文は何も考えず予測変換とか適当に出てきた文字を羅列しただけの文章です。


これをみた貴方は何か意味があるのかなと思いましたね?
歌詞?ポエム?

そう思い何かを感じようとした。

わかります。わかりますよ。

その考え方好きです。

でもね、その姿勢は時に人生を狂わせる。錯覚に陥るんですよ。

 

特に意味のない事なのにそれに対して勝手にこちらが意味を見出してしまう事よくありますよね。

一見なんの意味もなさそうなものでも意味があると錯覚する。

むしろそれを自分の感性と当てはめたがる。

世の中、意味があるものばかりではない。
何にでも製作者の意図があるとは限らない。


“意味がないものに意味を見出す”
のはとても素敵なことですが
“意味ないものは意味ない”
と判断できるのも素敵な感性です。


どうか「馬鹿の一つ覚え」みたいに何にでも意味があると思い込みその価値観を押し付ける“薄らハゲ”にはならないようにしてくださいね。

世の中以外と意味ないもので溢れてるものですよ?


あ、もちろん

 

 

 

 

このブログもね。

花束みたいな恋をした

 

珍しく元カノからラインが来た。

 

「これ、見に行った方がいいと思うよ」


と一言だけ。

 


f:id:SUSHI_DE_SUSHI:20210223205909j:image

今をときめく若手俳優と若手女優が出演する女子大生が観そうな映画。


わざわざ恋愛映画を独り身の元カレに勧めるなよ、と思ったがたまたま午後空いてたので観に行ってみた。

 

映画館は若いカップルだらけ。

30越えたおっさんが一人で観るには少し気まずい。

 

映画の内容は距離が近すぎて、価値観が似すぎている二人の真っ直ぐな恋愛を描いていた。

 

共感する部分とそうでない部分がある。

当たり前だ。

そして観ていて思ったけど「少し普通の人とは違う価値観」をもっているつもりの自分がマジョリティなのかマイノリティなのか未だにわからない。

 

最後まで観た結果、色々思う事はあったが元々映画を見て泣くタイプでもないので全く泣きそうにはならなかった。

 

 

嘘。
エンディングで少しだけ泣いた。

 

映画が終わると隣のカップルが目を合わせて「うーん、なんかよくわかんなかったね」と言って笑ってた。

 

それが良いのか悪いのかは置いておいて

俺は全力で恋をしておいてよかったな。

とそう思った。

 

 

 

と、映画終わりの鑑賞に浸る想いをポエムにしてみるという「痛いヤツ」の物真似はここまでにして30歳最後の映画を観て「彼女作ってライブ行きてぇ」と思いながらスーパー玉出で白菜と豆腐を買って帰った。